キミとボク
小説:Kabao イラスト:かがみもち
──なんで、彼女は色褪せないんだろう。
差し込む朝日に照らされて光る、埃の粒を眺めながら、薄ぼんやりと、そう思う。
上京してからの三年間で紫外線を浴び続けた安物のカーテンは、すっかり寝ぼけた色になっていた。
もたれ掛かった壁越しに、夏の日差しの欠片みたいなものを感じる。ぼんやりとした視線と、その肌の感覚だけが、今の私の世界の全てだった。形の悪い爪。よれた寝間着。手入れの行き届いていない髪。平凡より少し下の、詰まらない自分の人生を想う。
汚れとか、解れとか、傷とか、諦めとか、我慢とか、拘りとか、怯えとか、面倒くささとか。私の頭の中にあるのは、そういう、人間的なものばかりだったけど、そのなかで、彼女だけは、違う。彼女だけが、唯一、綺麗で、色褪せなくて、人間的じゃない物だった。
昨夜の喧嘩の理由なんて、些細な物だ。
無い、と言っても、きっと差し支えない。
私たちは、ただ、喧嘩をするために喧嘩をして、相手に伝えるべき言葉を吐き出す代わりに、相手の心を切りつけるような言葉を吐き出したのだ。
「今回ばかりは、終わりかな」
つぶやく声は、夏の倦怠に呑まれて、消える。吸い込んだ空気の湿度に、涙がこぼれそうになって、私はそのまま目をつぶる。皮肉なもので、私は、失わないと物の価値が解らないみたいだ。彼女を泣かせて、それでも酷いことを言い続けて、──きっと、私から彼女の心が離れてしまった今になって、私はいままでで一番、彼女への愛情を感じていた。
強く閉じた瞼から、何粒か涙がこぼれたところで、私は諦めて、目を開ける。手近にあったティッシュで鼻をかむと、ポケットから煙草の箱を取り出す。くしゃくしゃになった紙箱に自分のルーズを重ねながら、少し湿気た煙草に火をつける。
──良く飽きないね。
涼やかな彼女の声が、頭の中を通り過ぎる。私が煙草に火をつける度に、少しだけ寂しそうな顔で、毎回、そう言うのだ。その、薄荷みたいな声が聞きたくて、私は彼女の前で煙草を吸っていたような気がしている。
吐き出した煙は、広がって、薄まって、空気になる。空気はさっきより確実に汚れて、でも、さっきまでと同じような顔をして、そこにある。
そういう漸次的な変化が、私は嫌いだった。
永遠に変わらないように見えるものが、気がついたら取り返しのつかないくらい変化しているのだ。そしてそれを、いつか、唐突に、前触れもなく、突きつけられるのだ。
いま軽い気持ちで吐き出した煙が最後の一押しで、次に息を吸ったら窒息してしまうとしたら、私はこんな惰性で息を吐いたりしない。昨日の夜だってそうだ。あれが、最後だって知らされていたら、私はもっと違う言葉を伝えたかった。
灰皿に、灰を落とす。
昨日の飲み差しの、転がった瓶の、常温になったスミノフを惰性で呑むと、
昨日の熱の残り香みたいなものが、鼻の奥にツンと広がった。
/1
彼女にまつわる記憶のなかで、一番古いのは高校の入学式だ。
もう、五年も前の話になる。
真新しい制服の匂い、古びた体育館の匂い。
新緑に濾された潮風の匂い。
私は、「私」という人間に出会っていない空っぽな子供で、
壇上の彼女は自分自身を制御する、凛とした人だった。
新入生代表としてスピーチをする彼女を眺めながら、私は、それを太陽のようだと思っていた。柔らかそうなショートヘアも、少しだけ緊張した瞳も、鮮やかな唇も、なめらかな制服も、とにかく全てが煌めいていた。
私の魂は、その瞬間に彼女に吸い込まれていた。
彼女は、誰の光も浴びず、ただ、自分の魂や信念や、正しさのようなものを燃やして、光り輝いているように見えたのだ。
彼女の声は、とてもリズム良く原稿を読み上げていく。
その一言、一言は、まるで虹色のインクみたいで、きっと数分にも満たない挨拶だけで、私のモノクロだった心臓に、極彩色の染みを残していった。
──ひょっとしたらこのとき初めて、私は私の心臓に出会ったのかもしれない。
そう本気で思うぐらい、鼓動がうるさかった。
あの子と、同じ空間にいる。
あの子と、同じ空気を吸っている。
あの子と、同じ学校に通う。
あの子と、同じ制服を着ている。
自分という存在の正解はこれなんだという模範解答を見ているみたいだったから、
少しでも彼女との共通点が自分の中にあるというその事実がとても嬉しかったのだと思う。
ありがとうございました、と言って、彼女が小さく礼をした。私は、走り寄りたくなる気持ちを縛り付けながら、この、衝動の正体が何なのか、ずっと不思議に思っていた。
/2
迎え酒のつもりで飲み始めたのに、気づいたら足下にワインの瓶が転がっていた。
冷房の設定温度を限界まで下げて、それから少し、窓を開ける。冷たい空気と、外からくる生暖かい風とを浴びて、私は、動物と人間の中間みたいな情けない声を上げる。
スマホが三回震える。
私は、表示をみないで電源を切る。
その表示が、ひょっとして彼女かもしれない。
ラインで平謝りしてるかもしれない。
そう思うと少しだけ幸せだった。
──しかも私は、無視してやったのだ。
彼女は、既読が付かないからってあわてて電話を掛けるんだけど、電源が入ってないから繋がらない。それはとても愉快だった。
「馬鹿だ。──最低な奴」
解ってる。彼女はいま、大学の講義中だ。
さっきの振動は、ニュースの配信か職場からの連絡だろう。
だから消したんだ。見なければ、心のなかで、彼女はずっと焦っているから。
「……仕事、どうしよ」
無断欠勤は迷惑だったろうなっていう感情と、謝るのが面倒くさいからこのまま辞めて転職しようかなっていう気持ちが絡み合う。 高校を出て、やりたくもない仕事をまじめに続けてきたのは、ひとえに、彼女との生活を続けるためだった。それが叶わなくなるなら、別に飢え死にしても構わない気がする。
いまになって、一人になって、彼女はどうして生きていく積もりだろうと、実験ばっかりで、アルバイトをする時間もない彼女の今後を想像してみる。
──それは、ボクの問題だよ。キミには関係ない。大学のこと、良く知らないんだから口出ししないでくれないか。
昨日の彼女の言葉が、耳に残る。
その言葉が、切り裂いた傷は、今もまだ鮮やかで、その言葉が頭で流れるだけで、死んでしまいそうになる。
「良い歳して、なにがボクよ」
言い返してやる。
大学三年になる彼女は、そろそろ就職活動を始めるらしい。だから、三年前の私みたいに彼女は早く大人になるべきなのだ。自由を棄てて大人にならないと、いけないのだ。
──詰まらない人間になることと、大人になることは違う。自分の人生が詰まらないからってボクにそれを求めないで。
私が手を挙げる直前。彼女はそう言った。
図星だった。認める。私の人生は詰まらない。
率先していろんな物を棄てて、積極的に詰まらなくしていったんだ。そうすれば、大人みたいな顔ができたし、彼女と違って何者にもなれない私には大切な物なんて一つあれば充分だったから。
だから、酷いと思う。
そんなはっきり、心臓を割って血の色を確かめるようなこと、しなくても良いのにって。
彼女が、ツマミにと買ってきたイベリコ豚のジャーキーを噛みしめる。噛みしめて、豚の命に申し訳ないなと思う。彼だか彼女だか知らないけど、こんなマズマズしく飲み込まれるために生きてきたのではないだろう。私が豚だったら、私みたいな詰まらない人間に食べられるのだけは嫌だ。
「……詰まらない」
呟いてみる。
遠い昔、彼女を知る前の私は、この詰まらなさをどう処理していたんだろう。
この乾きを、この空腹を、この退屈を、私はどうやって耐えてきたんだろう。思い出せない。
──遠くで、雨の匂いがする。
私は、その湿度を孕んだ空気を枕にして、私は開けはなった窓越しに快晴の夏の空を見上げる。
その晴天から、生ぬるい雨粒がひとつ、窓から投げ出していた額に落ちる。
雨粒は額を転がり、それから目元で涙と合流して落ちていく。
雨は好きだ。包まれている感じがする。いつだったか、彼女はそう言った。
その時の私は理解できなかったけど、今の私にはそれが理解できる。
誰も撫でてくれなかった頭を、雨は、平等に撫でるのだ。
幽霊のような自分が、この世界に存在しているといことを、こうして、辛うじて、教えてくれているのだ。
/3
授業に慣れると、あっという間に梅雨だった。
私は、別に梅雨のことを好きでも嫌いでもなかったけど、周りの「友達」たちが雨に濡れるのが嫌だとか、髪の毛が決まらないから嫌だとか、男子の服が臭くなるから嫌だか言うのが女子だと言うから、とりあえず、嫌いだと言い張ることにしていた。
劇的な始まり方をした高校生活だったけど、思ったよりも普通に、あの日から今日まで惰性で続けてきた。 「友達」たちの会話は、クラスの誰が格好いいとか、サッカー部の先輩と付き合いたいとか、そういう話ばっかりだった。
その子の切ない恋愛話を聞くのはそこそこ面白いことだったけど、じゃあ自分はと聞かれても、そういう相手のことを考えたこともなかったから困ってしまう。でも、居ないっていうのは普通じゃないみたいだったから、私はいつも、普通に生きている私のような別の生き物を心の何処かに住ませて、その「私みたいな何か」だったら誰を好きになるのだろうと必死に想像をして、答えるようにしていた。
──自分は普通じゃないというのは、私にとって、とても怖い想像だった。
普通じゃなかったら親を困らせるし、先生に怒られるし、お爺ちゃんが言うには、私が普通じゃなかったらお爺ちゃんの寿命を縮めてしまうらしい。
「──でもさ、」
吐き出した言葉は、雨の前の重い空気に押しつぶされて地面に転がる。
昼休みだけど誰も居ない中庭のベンチに座っている私は、見えないそれをけっ飛ばすみたいに足を放り出して、空を眺める。
長雨の始まりみたいな鉛色の空に、私は吐き出すように言う。
「みんなの普通は、私にはレベルが高すぎるよ」
私は、普通にすらなれない。
みんなが当たり前のようにしている生き方が、私にはとても難しいのだ。
「そうだね。ボクもそう思うよ」
真横から声がした。
近い。
私は、びっくりして、立ち上がる。
その手を、彼女が、掴んだ。
「行かないで。やっと見つけたんだ」
その声が、一瞬だけ、ぎゅっ、と心臓を掴んで止める。
それから、揺り戻すみたいに鼓動を速くさせる。
綺麗だ。と思った。
柔らかいと思った。
良い匂いがしたし、穏やかな呼吸の音さえ美しかった。
あの人が、目の前に居た。
入学式の日に、私に呪いをかけた人。
私を、普通では居られなくした人。
「──どうして」
ようやく吐き出した「どうして」には、自分でもよくわからない、いろんな意味が籠もっている気がした。
彼女は、それを、「どうしてここにいるの?」という意味で理解したみたいで。
空を指さして、こんな天気だもんねと笑った。
「梅雨が好きなんだ。空気が近くにあるから」
彼女は、私の心のすごく近い場所で笑った。
ずるい、と、思う。
なんで、そんなに簡単に、普通を投げ捨てられるんだろう?
──そんなこと、考えるまでもない。彼女は太陽なのだ。
太陽なのだから、日陰に居ても怖くなんてないのだ。
「……雨は嫌いじゃないんですか」
私は、自分では聞かれたくないような質問を、少しだけ、意地悪な気持ちで、投げた。
「好きだよ。包まれている感じがするから」
「そうなんですか」
私もです、と言いたかったけど、私もですって言うほど、私は雨のことを好きではなかったから、肯定と否定の中間の、よくわからない言葉をそうやって吐き出した。
「隣に座っても?」
「どうぞ」
私は、ベンチの右端に寄る。
彼女は、ベンチの真ん中ぐらいに座った。
「”ボク”の名前はスミコ。墨汁のボクに子で墨子」
「ボク……あぁ、だから」
私が、そう、納得した声を出すと、彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。
それから、親指で中指の爪をいじりながら、続ける。
「それだけじゃないよ。私とかあたしとか使うのも、ちょっと違うと思ってさ。かわいい女の子みたいにして生きるのは趣味じゃないから」
「……もったいない。そんなにかわいいのに」
と言ってから、視線を降ろして、自分の胸を見て、嫌だと思っている要素を誉められるのは嬉しいことじゃないことに気づく。
「ごめんなさい、そういうつもりじゃ」
視線をあげると彼女は真っ赤な顔をしていた。
「いいよ。良い。別に。あなたに言われるのは悪い気がしないから気にしないで。ところで、あなたお名前は?」
「キミコです。公務員に、子供で公子」
「キミコ。じゃあ、”キミ”でいい?」
「──うん」
唐突に出た、その言葉の距離感に驚いた。
私は生まれて初めて、誰かに、この距離感で名前を呼ばれたような気がした。
親からは「お前」だったし。
「二人して随分、古風な名前だ」
彼女は、とても綺麗にそう笑った。
それだけで、好きでも何でもなかった自分の名前を、好きになれるくらい。
「じゃあ、私のことは”ボク”って呼んで?」
「ボク……ちゃん?」
「それは嫌だな。煽られてるみたい」
「でも、”ボク”だと私が僕って言ってるみたいで」
「嫌かい?」
「私には、普通しか似合わないから」
「そんなことはないと思うけど、でもさ、普通が似合うっていうのも才能だよ。そんな悲しい顔をして言わないで」
「そんな──」
ことは無いと思ったけど、そんなことを言われたのは生まれて初めてだったから、私はそのことばを否定したくなかった。自分の言葉で、その綺麗な声の余韻を汚したくなかったから、何もかもを飲み込んで、小さく、頷いた。
「そういえば、さ。”キミ”、──えっと、失礼なことを言ったらごめんね。”キミ”、入学式の日、”ボク”のことを見ていなかった? 何回か目があったよね」
「……新入生代表だったから」
嘘をつく。
私が、本当に、普通の人だったら、つかなくても良い嘘を、私はついた。
私の本当は、もしかしたら、彼女を傷つけるかもしれないから。
視線が泳ぐ。自分の足先。膝。手の先。
眼球を動かしていないと、涙が出そうだった。
「”ボク”は──それだけじゃないと嬉しいけど」
「……え?」
「あの日、キミのキラキラした顔を見た日から、ずっと”キミ”のことばっかり考えてるんだ」
キラキラしている? 私が? その言葉に、何かを予感して、私は押しつぶされそうになる。
耳がギュッて鳴って、世界がチカチカと光って、それから、急激に、冷えていく。
嫌だな。と思う。
嫌だ。嫌だ。
──彼女は、何を言っているのだろう。
「”キミ”も”ボク”のことが好きなのかなって、思ってるんだけど、どうかな?」
も、って、言った。
それは、つまり、そういうことだ。
「違う?」
その言葉に、私は、首を横に振る。
違くは、ない。
違くは、ないんだ。
ずっと、そんな気がしていた。
これが、この感情の正体が、友だちのみんなが、世界の真理かのようにずっと語っていた、恋という感情の正体なんだろうって、ずっと、思っていたんだ。
「良かった。じゃあ──」
緊張がとけて、安堵したような彼女の声。
彼女が、てのひら一つ分だけ近づいてくる。
私は、あわててベンチから立ち上がる。
それから、私は首を横に振る。
「でも、普通じゃないから」
私は、言った。
言いたくない言葉を、言った。
ただ、保身のためだけに。
そのためだけに、彼女の勇気に泥を塗って、彼女の心臓にカッターの刃を突き立てる。
「この好きは、普通の好きじゃないから。私は、普通じゃない人には、きっとなれないから」
「そっか」
彼女は、一度だけ、俯いた。
それから、表情の上半分は笑顔で、下半分は泣きそうなのをこらえているような顔で、言った。
「”ボク”は、”キミ”の困る顔は見たくないから。それなら”ボク”は、普通で良いよ。普通の友だちとして隣にいてくれる?」
私は、罪悪感で、その顔を見れなかった。
逃げたまま、心の中を檻に閉じこめたままで、小さく、不誠実に、頷いた。
/4
昼下がりに遠雷を聞く。
初夏の雨は騒音を巻き起こして、私たちのアパートを飲み込んだ。天井を責め立てるように叩く雨音を聞きながら、私は、冷蔵庫からモヒートの瓶を取り出す。
ライムとミントの香りで、湿気と衝動とを飲み込みながら、玉子焼きを作る。
玉子焼きにみりんを入れないで出汁を入れるやり方は、家を出てから、彼女に教わったものだ。
「あぁ、面倒くさい」
面倒くさい、面倒くさい、面倒くさい。
儀式みたいに唱えながら、粗めに大根を摺り下ろす。
自分自身が面倒くさいからか、面倒くさいことは嫌いじゃない。
面倒くさいから、好きなのだ。
できあがった玉子焼きを、フライパンのまま運んで、読み終わった雑誌の上に置く。
表紙のグラビアアイドルが焦げる匂いがする。
結局私は、常識という名前の檻のなかから抜け出すことができなかったのだ。自由に伴う責任も怖かったし、逃げ出すという事実と向き合うことも怖かった。
親とか、先生とか、友だちとか、そういうのをスケープゴートにして、私は、ただ、この臆病で尊大な心を護り続けてきたのだ。
そのせいで、私は、彼女を傷つけた。
すごく、すごく、傷つけた。
彼女は、とにかく抜け出したかったんだ。自分を押さえ込もうとする、狭苦しい鳥籠のなかから。私は、そんな彼女のすぐ隣に居て、一緒に空を目指すようなツラをして、必死でその足を押さえつけていた。
──当然だ。
自由になったら、彼女は、止まり木を必要としない。
私みたいな平凡な人間が、あんなに輝かしい彼女に必要とされるのは、彼女を理解する人が私しか居なかったからだ。
私は、そうして、玉子焼きが冷めていくのを眺めていた。お腹が空いた気がしたから焼いてみたけど、暇つぶしがしたかっただけみたいで、焼いただけで満足してしまっていた。
彼女のことも、そうなんだと思う。
手放したら二度と手に入らないから、箱の底にしまって、ただただ冷めていく様子を観察しているんだと。
高校を卒業して、家出同然に上京して、身を寄せ合うようにこの部屋に転がり込んで来て、三年がたつ。勉強したかった彼女が大学へ行き、自立したかった私が就職をして。気が付いたら今日だったっていう感じだった。
私と彼女は、いまもまだ普通の友達だった。
何度も、何度も、普通の友達同士ではしないようなことをして、とっくの昔に私たちは普通の友達なんかじゃなかったけど、それでも、私は彼女の優しさを搾取し続けていた。
「……嫌になる」
余った大根おろしを、飲み飽きてきたモヒートの中に入れて、かき混ぜる。いつも彼女がやっている飲み方を真似しているだけだけど。
奪っても、奪っても、閉じこめても、貶めても、それでも彼女は何一つ色褪せなかった。
常に鮮やかに私の目と心を焦がす。
私では、何をしたって彼女の心に染み一つ、しがらみ一つ、残せないのだ。
不公平だ。
私のことを、あんなに染め上げておいて。
「死んでしまおうかしら。当てつけみたいに」
冗談だと思って言葉にしてみたら、どうやらそうじゃなかったみたいで、自分が一番、驚いていた。そうだよ、それが良いよと、心臓が言っているみたいだった。
私が死んだら、彼女に影を落とせるだろうか。それとも、私なんて居なかったみたいに、自由に、新しい生活を謳歌するのだろうか。
──私は、彼女に、どっちであって欲しいんだろうか。
「ばかばかしい」
千々に砕けた心は、硝子のコップを割った後みたいで、どこに落ち着こうとしても、鋭利な刃物のように切りつけてくる。流れる涙も拭えないままで、私は、そんな惨めな私を、侮蔑して、笑った。
/5
玄関の扉が開いた。
私は、そのことに、酷く、失望していた。
外から風が吹き込んでくる。
私は、寝っ転がった体を動かせないままで、玄関を一瞥して、そのまま、視線を天井に戻す。
「……入っても良いかな」
外から入ってくる弱々しい言葉は、私のなににも引っかからず、開けっ放しの窓から外へ溶けていく。
まるで、幻聴のようだった。
それきり、彼女は気配を消してしまう。
ただ、開けはなっている玄関の外から、嵐の音だけが、嘘みたいに響いて、その騒音だけが彼女の存在を照らしていた。
私は、割れそうな頭を持ち上げて、玄関から一番遠い壁に支えられながら、体育座りをする。
「好きにしたら良いよ」
「ありがとう」
彼女は、近所のハンバーガー屋の紙袋を大事そうにかかえて、部屋に入ってくる。
「今朝はごめん」
彼女が言った。
私はただただ、その言葉に、心が動かなかったことに驚いていた。
「良いよ。別に」
別に、良いんだ。
あれだけ全力で傷つけても、彼女はこんな、ちょっとした喧嘩をした後みたいな顔をして帰ってくるんだから、もう何もかもがどうでも良い。
「ハンバーガー、食べない?」
ちらちらと、まるで、粗相をした飼い犬が飼い主に許しを乞うような姑息な顔で、彼女が言う。
それで元通りになると、思っているんだろう。
断ってやる優しさもなく、私は、「テリヤキ」とだけ言う。
彼女は、袋の一番下からテリヤキを取り出して、机の上に置いた。
「授業はどうしたの」
「そんな気になれなくて……仕事は?」
「私も」
「そっか。ごめん」
「良いよ。私が言い過ぎた」
冷たい会話。
なんの感情も励起させない、お互いの心の外側を、触れないようにさするような会話。
「……なんだって、そんな機嫌伺うようなことするの」
空間に、言葉のゴミを投げる。
彼女はそれを甲斐甲斐しく拾って、アイロンをかけて畳み直すような間をおいてから、応えた。
「ボク……ううん。あの、私、本当に、酷いこと言っちゃった。図星だったから、動揺して。でも違う。そういう酷いことを、ずっとあなたに対して思ってた。それを謝りたくて」
──大学に行けないような人に大学のことを言われたくない、と彼女は言った。
ほかにも色々。
それはきっと、昨日の私がそうだったように、普段から心の中にあった言葉だったのだろう。
でも私は、そうやって傷つけられたことよりも、いま、彼女が、必死で、普通の人間になろうとしていることが、なによりも痛かった。
「ハンバーガー買って帰ってきて言うこと?」
裏腹に、言葉が滑り落ちる。
私はまた、自分の心臓に気づかずに、この局面を乗り切ろうとしているようだ。
「……。食べない?」
彼女が言う。
私は黙って、テリヤキバーガーの包みに触れる。
生ぬるく、雨に濡れたそのハンバーガーは、私には彼女の心そのものにも見えた。
黙ったまま、私はそれに口を付ける。
それを見て、彼女も、チーズバーガーを頬張る。
私は、酷い味のそれを無理矢理飲み込みながら、その姿をただ凝視していた。
意識を、そこにだけ、固定していた。
彼女は、顔全体をしわくちゃにしながら、一口、二口、三口とそれを齧る。
「あのね……」
それだけを言うと、また黙って、袋から二つ目のチーズバーガーを取り出して食べ始める。
苦しそうにそれを食んで、大粒の涙をこぼす。
それから、譫言のように、おいしい、おいしい、おいしいと何度も呟く。
「今日、ここを出て、二度と帰るもんかって思って、お昼に、高いお店に入ったんだ。一個で千五百円するハンバーガーを注文して」
馬鹿な人だと思った。
私と同じ、馬鹿な人。
「──そしたらさ、全然おいしくなかった。千五百円もするのに。海の底で食べてるのかって錯覚するぐらい不味かった」
「それでも、こんな雨でべちゃべちゃになってる奴よりはマシでしょ」
「そんなことない! そんなことなかった。あなたと一緒なら、泥だらけでも、雨でべちゃべちゃでも、安物でも、おいしいんだって……」
転がるアルコールの瓶を眺めてそれを聞く。
お気に入りだと思っていた、不味い、不味い、冷えたアルコールの瓶。
「私、ずっと、あなたに嫉妬してたの。誰とでも綺麗にバランスをとって、心配りができて、誰からも嫌われない。大人に好かれて、仕事ができて、自立してて、私に無い全部を持ってる」
私は、その言葉を、彼女の鼻についたケチャップを凝視しながら聞いていた。
そうやって、何かに集中して、その言葉を聞き流さないとと、思っていた。
今日一日、私と同じことを思っていた彼女の言葉を、私は聞き流さないといけない。
「あなたみたいになりたかった。でも、なれなかった。そんな自分が嫌で──意地になって。でも、がんばるから。私、ちょっとでも普通の人間になれるようにがんばるから。だから……」
酷い泣き顔。
それでも、そんな、雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔が、いとおしいと思った。
「私も、ずっと、嫉妬してた。いつまでたってもキラキラ輝いて、色褪せないあなたに。私は全然駄目だったから。あなたに夢を棄てて欲しいって思ってたの。ずっと。あなたには私じゃ想像もできないぐらい、すごい才能があって、美人で、スタイルもよくて、勇気があって。だから、手を離したらすぐに、見えないどこかに飛んでいってしまうような気がしてた」
「違うよ。──それは違う」
彼女はそう言ってから、自分の足下を眺めて、少しだけ嬉しそうな顔をして言った。
「ちがう。あなたが、私の良いところをずっと見つけてくれていただけだよ。もし、あなたの中で私が色褪せてないのだとしたら、それは私じゃなくて、あなたが、ずっと私を鮮やかなまま想ってくれていたから」
それは、きっと、ずっと欲しかった言葉だ。
でも、卑怯な私には、受け取る資格の無い言葉だった。
私はずっと、逃げていたから。甘えていたから。
「私は──」
声は、情けないほど細く、震えていた。
呑み込んで、咳払いをする。
彼女は、なんだろう。怯えてるみたいな顔をして、身を縮ませた。
「私は詰まらない人間だから。だからきっと、棄てられるって思ってた。あなたが外の世界を知ったら、飽きられるだろうなって。だから、私より魅力のある全てを、あなたの世界から遠ざけたかった。あなたの全部になりたかった。鳥籠のなかで、私が持ってくる餌だけを食べ続けて、孤独と安寧のなかで、ただ、朽ち果てて行って欲しいと思ってた」
無様な話だ。
そうすれば、特別な彼女の、特別な人で居られると、思い上がっていた。
「良いよ。それでいい。あなたがそう望むなら私は──」
「でもね。間違ってたみたい。謝る。”ボク”は、”ボク”じゃないとダメだよ」
彼女が自分のことを「私」っていう度に。
彼女が私のことを「あなた」って呼ぶ度に。
心が砕けそうになる。
「だったら、それで良いよ。あなたが望むような私でいるから──」
「やめて。それ以上いわないで」
私は、聞きたくないその言葉を遮った。
違うんだ。
私は、自由じゃないあなたを見たくない。
ううん。あなたの不自由である自分を、見たくないんだ。
「ねぇ、喉がかわいた」
「え?」
「それ、私のじゃないの?」
紙袋と一緒に彼女が持って帰ってきたコンビニの袋を指さす。
「あ。うん。ビール。帰りに買ってきたんだ。……でも、ハンバーガー買いすぎて手持ちがなかったから、発泡酒一本だけだけど」
「良いよ。ありがと」
私は、その温くなった発泡酒を受け取り、開ける。
それを紙コップふたつに半分ずつ注ぐ。
「はい」
そういって渡す。
私は、彼女がそれを受け取ったのを視線の端で見ながら、その紙コップに口を付ける。
「……ずるいな」
こんな温い、安物の発泡酒が、今日飲んだお酒の中で一番おいしかった。
それは、あまりにずるいと思う。
私は、一気にそれを煽ると、窓の外を見る。
遠くのほうではもう、夏が鉛色の雲を断ち切って顔を出していた。
「ねぇ、ボク。──私たち、結婚しようか」
「え?」
「どこかで式でもあげてさ、小さなお揃いの指輪を買おうよ」
「……何言ってるの? そんな、どうやって」
「お金ならある。お金だせば、どっかで引き受けてくれるでしょ? 別に変な紙切れが欲しくて言ってるんじゃないから」
「私は──でも、あなたを困らせたくない。普通じゃないのは、嫌でしょ?」
彼女の瞳に宿る怯えを、私は良く理解していた。
きっと自分がさっき感じていた怖さと、同じ。
自分の気持ちを押しつけて、相手の意思を殺してしまう恐怖。
「思いつきだけどさ、別に、贖罪で言ってるわけじゃないよ」
そんな言葉を言う。
そう。この言葉だけじゃ、贖罪には足りない。
昨日だけじゃない。
いつかのあの日。
決死の勇気で差し出された手を、卑怯に掴んだことから、謝りたかった。
「私が間違ってた。本当にごめんなさい。あなたの気持ちに、ずっと甘えてた」
「いいよ。いいんだよ。そんなの、私が勝手に──」
「”ボク”で良いよ。あなたには、自由が一番似合ってる」
その自由に傷をつけて、飛べなくしたのは、自由じゃなかった私だ。
「大切な人に無理をさせてまで、私は──」
「うん。私も同じ。”ボク”に無理させるのは嫌なんだ」
平行線だ。
どこまでいっても、多分、私たちは平行線。
合わせようとしたら、どっちかが折れてしまう。
さっきまでは、だから、離れないとと思っていたけど、それはもう辞めた。
交わることを諦めたら、きっと、私たちはどこまでだって行ける。
そんな気がしたから。
「好きだよ。”ボク”。私、ずっと、ずっと、あなたのことが好きだった。壇上であなたが喋っている姿を見た瞬間から、ずっと好き。愛してる。……言えなくてごめん。それから、言えるようになるまで待っていてくれてありがとう」
あの時、あの手を取れなかった罪は消えない。
私が私になるまで待っていてくれた彼女の苦労を、無かったことにはしたく無い。
「泥だらけでも、雨でぐしゃぐしゃでも、周りと一緒じゃなくても、誰かに怒られても、別にそれで良い。誰かに評価されるために生きているわけじゃないんだって、ようやく気付いたんだ。遅くなってごめん」
自分が、詰まらない物に囚われていたことで、どれだけ彼女を傷つけただろう。
「昨日、私は”ボク”に酷いことを言ったし、逆に酷いことも言われた。傷つけたし、傷ついた。カッとなって言い過ぎたこともあるけど、多分、本心もある。気にしないでとか、無かったことにしようとか、言わない。私は狡くて嫌な、詰まらない人だけど――」
彼女に相応しい人なんて、きっといっぱい居る。
悲しくなるぐらい、私たちは釣り合わない。
でも。それを彼女が喜んでくれるのなら。
私は、そんな私で良かったと思えるかもしれない。
「ねぇ、”ボク”。私と結婚してくれませんか?」
差し出した手を、初夏の風が洗う。
降る前より何倍も爽やかな空が、窓の外に広がっていた。
私の手を掴みかけた彼女の手が、途中で止まる。
その震えが、傷ましくも、愛おしくもあった。
「酷い顔」
怯える彼女の顔を見て、私は笑った。
私への当てつけでやった慣れないメイクが、雨と涙でぐちゃぐちゃになっていた。
それでようやく、彼女も笑った。
「”キミ”だって」
昨日ぶりの言葉。酷く懐かしい、彼女だけが呼ぶ私の名前。
泣きそうになるのを、少し俯いて隠す。
「あなたに酷いこと、言われたから」
「”ボク”だって!」
「そうだね」
二人して、笑い合う。
これは、きっと、解決じゃない。
でも、それが良いんだと思った。
いつまでも解決しないから、私たちは、いつまでも互いの心のなかで色褪せずに居られる。
「それで、プロポーズの答えは?」
笑いの隙間を縫ってそう訊ねると、彼女は真っ赤な顔を逸らした。
「……”ボク”も同じだよ」
「卑怯な言い方、好きじゃ無いな」
「こういうの苦手なんだよ」
「私だって苦手だったわ。ちょっと前まで」
挑発するように、小さく笑う。
「わかったよ。”キミ”の頑張りに応えなきゃ、私は”ボク”じゃない。でしょ?」
「さぁ。私は、自由なあなたが好きなだけだから」
「あぁもう。虐めないでくれよ」
そう言うと、彼女は手に持った紙コップの、安い発泡酒を飲み干してから、仰々しく膝をついて、ゆっくりと私の手を取った。
「ねぇ”キミ”。”ボク”と結婚してください」
初出:百合アンソロジーInnocence ーイノセンスーVol.4
2021.02.20 一部改稿